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大きな時代の変化の中にあって人はどうすればいいのか 幕末から明治を生き抜いた2人の男


フランス留学で
何を学んだのか

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ちょんまげから山高帽子で洋装の渋沢へ

 

そして1667(慶応3)年1月、栄一は慶喜の弟・徳川昭武に従ってフランスへ出立。

3月、一行は到着、パリ万博見学さらにフランス・ナポレオン3世とも謁見した。この詳細については明治4年、友人と共著で「航西日記」に詳しく記している。中国香港では初めて中華料理を食べたり、インド、スエズ、カイロ、ナポリから船でマルセイユ、そしてパリへ、栄一は色々な出来事を冷静な目で書き残している。

さてパリに着いた一行だが、役目柄一番下っ端の栄一は、長い宿泊のホテル探しなどで大忙しだったようだ。

それはさておきパリ万国博覧会に参加した人たち、とくに栄一は、何に驚き、何に驚かなかったのか。その興味深いところを山本氏は次のように綴っている。

最初はやはり進んだ農耕機械と紡織機械に驚くが、栄一はフランス国の貨幣制度に目を付けている。この貨幣と度量衡(物の価値を測る基準)については、その後、国内で栄一は手をつけ解決している。それから新聞制度にも興味を引き、後に今日の国内最大の製紙会社を設立している。

そして栄一がフランス留学中にいちばん学んだことは「この風習だけは日本に移したいものである」と言うほど感銘したことがあった。

実は栄一の傍に二人のフランスの銀行員がいた。栄一から見た二人の出身身分はおそらく違うほど大きかったのに、二人はわけへだてもなく栄一に接してくれたことだった。なぜそう感じたのか、ここが栄一の偉さなのだろう。

つまり、身分など関係のない当時のフランス社会の雰囲気に栄一は感動したのだった。

当時の江戸は士農工商の世間だった。貧しいくせに威張る武士たち。それに対して内心は相手を見下しながら、へらへらと頭を下げる豪商や商人たち。まさに「官尊民卑」であった。

もっとも当時、幕末には多くの人がヨーロッパに行き、さまざまな新思想や新知識を持ち帰ってきた優等生もいただろう。しかし栄一ほど何をどうすべきか。その「合本組織」(株式会社)の重要性を認識し、それを実行に移そうとしたものはいなかった。多くの留学生はそうではなく「新知識を持つ新しい武士」のような意識を持ち、そのようにふるまっただけであった。栄一はほかの男たちとはまったく違う人だったのだ。

大阪で優れた流通
経済を学んだ渋沢

ところで話を替えるが多くの人は江戸時代とは、まだ経済の発展しなかった貧相な時代で、人々はひっそり生活していたイメージが伝わっているが、それはない。むしろ日常の小さな商売は盛ん。今のレンタルショップもあれば、「十九文屋」と云うのがあって何でも19文均一とか。

今の100円ショップだ。儲かるなら何でもありのアイデアと知恵を出す庶民は、たくましかった。日常は少額だが、一方大きな商売上の取引は現代とほとんど変わらぬ決済方法が行なわれていた。

とくに〝天下の台所〟といわれた上方(大阪)では、為替手形、振手形(小切手)預り手形(預金証書)小手形(約束手形)などがふんだんに活用されていたそうだ。だから実際の商取引では、お互い千両箱を持ち運びするようなことはなかったようなのである。

このように当時、世界的にも最先端の金融と市場が取引されたといわれる上方において、一橋家の財務管理に携わり、実際に様々な商取引を行なってきたのが栄一だった。

藍と養蚕を業とする農民の子として生まれ、13歳の時から集金に回り、今は勘定組頭として一橋家の米の売却、藩札の発行などの実務を通じて日本の経済的仕組みの実体をよく学んだことが、栄一の視野をより広げたと山本氏は見た。

お金が回るという
経済の本質を説く!

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明治6年、日本初の第一国立銀行が渋沢らの尽力で開設された。銀行とは一体どんな働きをするのか、なぜ必要かを渋沢は人々に説いた

そして、そういう渋沢偶然が明治6年6月には第一国立銀行を開設している。

と同時に突然、大蔵省を辞めている。当時大蔵省のいわば事務次官級として活躍、いずれは大臣かとも言われた役職をかなぐり捨て、あっさり民間に下った。

辞めた理由がまた痛快だ。それまで経済のことがわからない、わかろうとしない高官たちと渋沢は経済については再三、意見衝突。しまいは大久保利通や大隈重信とも激論、元勲らを怒らせてしまっている。

要するに渋沢から見れば当時の高官たちはほとんどが国家の財政とは何か、どうあるべきかもわからない、要するに「経済的無知」の人ばかりだった。ほとほと愛想が尽きた気持ちがあって辞職、民間での自立の道を選んだのだろうと山本氏は著述している。

明治初期の人間にとって「大臣」とは大出世であるが、野に下り「商人になる」というのは身を落とすことであったのだ。それを承知の上であえて官職を捨てたのは渋沢の中に政治という「虚業」より経営という「実業」を選択させる「何か」があったことを意味する。一体この「何か」は何に由来するのであろうか、と。

そして以後、官職につくことはガンとして断り続けた渋沢は、民間設立の小さな第一国立銀行を育て、それを基盤として、現代の日本経済の根幹をなす金融・保険・陸海運・麺業・製紙・印刷・鉄鋼・造船・電気・ガス・ホテル等々、あらゆる基幹産業に及ぶ500近い企業を立ち上げる。一体なぜ、渋沢にこんなことができたのだろうか。

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