最終更新日:

大きな時代の変化の中にあって人はどうすればいいのか 幕末から明治を生き抜いた2人の男

司馬遼太郎のいう
ビジネスの定義!

司馬氏は次の一文でビジネスとはどういうしくみなのか、筆者の胸に突き刺さるような定義を書いている。

――ビジネスには、単純で強烈な目的がある。まずひとびとが機械のように組織をつくる。その組織が目的のために自分を部品化し、機械化し、全体としてビジネスの目的を遂げられるように動く。(*それに自主的に加わる労働者として)参加する人間には部分としての義務が倫理づけられ、しばしば限定的な判断もさせられる――と。

近代以前の国や社会にはこのような考え方のビジネスの芽はなかったと述べているのである。

ここについてアメリカ訪問中の司馬氏はハーバード大学(*日本でいえば最高のエリート大学のような存在)のビジネス・スクール(設立1908年)についての印象を以下のように語る。

ここでいう『西欧実学の実を知る』とは、つまり『実際のるつぼの中に学生の頭脳と学説をたたきこんで煮上げるようなたくましいビジネスを教える学校』がアメリカにはあるというのである。

学生は2年間で千冊の本を読む。本というのは経営上の「ケース」が書かれていて、ただ読むだけでなく学生はそのケースを頭に入れ、その局面に身を置き、教師の挑発を受けつつはげしい討議をおこなうのである。

『西欧実学の実たる所以』と福沢がいったことをそのまま生きた機関にしたのが同ビジネススクールらしい、と。それこそが激変する時代を生きのびる実学の実になるというのであろう。

以下は余談。はたして日本にはそういうスクールはあるだろうかと司馬氏は問う。そして『日本では東大経済学部は当然ながら学問研究の場で、実際面の経営学の訓練所とは言いにくい』とも。だから日本にはどこの大学にもそういうスクールは「遂になかった」という。ここは司馬氏が奨励を込めた一文ではないかと筆者は思う。

以下は思いすぎかもしれないが、日本からは度々物理や化学のノ―ベル賞受賞の学者は出る。しかし、景気を左右するような経済学に関する論文での受賞者は未だ一人もいない。それはなぜかと先述の小室直樹氏は著書『経済学をめぐる巨匠たち』(ダイヤモンド社刊)で述べている。司馬氏ならずとも、ここに理由の一つがあるのではないかと言っているように筆者には思える。

渋沢栄一という
すごい男が現れた

さて明治初期、もう一人すばらしい男がいたのである。それが今、NHK大河ドラマの主人公・渋沢栄一である。〝日本資本主義の父〟ともいわれる。なぜそう呼ばれるのか。どんな人だったのか。

もっと詳しく知りたくて山本七平氏の著書『渋沢栄一・近代の創造』(2009年=祥伝社刊)をネットで買い求めた。分厚い650頁もある内容のある本だった。著者はただの伝記でなく、いかに日本経済の近代化に役立つ人物だったかを書いている。

読むと、武蔵国・血洗島村(現、埼玉県深谷市)出身の一農民に過ぎなかった渋沢が、のちに経済発展の支柱となる銀行を作り、国の重要なインフラとなる数多くの株式会社を発足させ、明治以降の近代化を進めた経緯が記されている。渋沢が後年語ったという回想記『雨夜譚』(うやものがたり)を通じて、その功績と人となりが明かされている。

幼少時、既に商才
と行動力を発揮す

これほど色々事情が込み入った波瀾の人生を歩んだ人物はあまりいないだろう。NHK大河ドラマを観ていなかった方のために少々略歴を。

1840(天保11)年生まれ。なんと昭和6年まで存命され91歳で永眠した。年号では天保から弘化→嘉永→安政→文久→元治→慶応さらに明治→大正→昭和を跨ぐ(また)ぐ、まさに黒船来航以来の幕末、明治にかけての歴史的動乱の〝生き証人〟だったのだ。

実家は紺屋に売る染料の元になる藍玉(あいだま)づくりの富裕な農家。その渋沢家の経済力は相当なもので、運転資金は千両や二千両ではなかったことは、地元の殿様(領主)への上納金が大枚五百両だったことからもうかがえるそうだ。

なぜなら農業とはいえ各地から藍葉を買い集める仕入れ、それを加工製造し、さらに販売までの一貫した、いわば今日でいう先端企業〝加工メーカー〟であったからである。父は市郎右衛門。

栄一は藍葉や藍玉販売の見習から始めたことが、ただの農民でなく経営的農民としての才覚と行動力を発揮し始める。既に8歳の頃、近隣に住む10歳年上の従兄・尾高惇忠(じゅんちゅう)に論語や中庸を教わった。農民とは思えぬ博識そして多才な教養も身につけていくのだった。

1863(文久3)年幕府が大政奉還する5年前のこと、当時24歳だった渋沢はその尾高氏と共に攘夷論に走り、横浜の外国人襲撃のテロを計画するが、ある事情で中断。ここではそのいきさつは省く(ただし、この惇忠氏がのちに絹を製造する富岡製糸場の開設に従事。初代場長として明治国家の財政を援ける)。

同年、テロ行為の暴露を畏れ郷里を離れて京都に赴く。縁あって一橋家の御用人・平岡円四郎に出会ったことから運が開ける。藩主はのちの15代将軍徳川慶喜だった。

そこで栄一は同家の財務をたちまち上向かせたことで勘定組頭に抜擢される。

当時慶喜は孝明天皇を奉じる京都御守衛総督という要職にあった。その慶喜とのお目通りさえ異例なのに面談がかなうと栄一は『次の将軍になるべきでない』など天下公論の自論をまくしたてる。ところが、ほんの前まで百姓だった男の話を黙って聞き、何も返答もしなかったという慶喜も少々変わった男かも。

しかし栄一については〝この男は仕える〟と見て後にフランスのパリ万国博覧会使節団の派遣要員に幕臣として抜擢したのは慶喜だった。栄一はその恩を終生忘れず、ずっと慶喜を見守り晩年には「徳川慶喜伝」を出版するほどだった。

この記事は、有料会員限定です

  • 有料会員登録すると、全ての限定記事が閲覧できます。

関連記事